応募者のためのナルティスツアー2022 vol.8
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こんにちは! ライターの宮本です。
応募者のためのナルティスツアーもいよいよ大詰め。
vol.8となる今回は、ナルティス創始者のbossこと新上ヒロシさんにインタビュー。
前編では、今年デザイナー歴35年を迎える新上さんのルーツに迫ります。
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新上ヒロシ◎1968年横須賀市生まれ。
桑沢デザイン研究所在籍後、数年間デザイン事務所に勤務ののち、1997年ナルティスを設立。
代表作は『聖☆おにいさん』(中村 光/講談社)、『ランド』(山下和美/講談社)』、
『ツイステッド・シスターズ』(山下和美/講談社)、『山と食欲と私』(信濃川日出雄/新潮社)、
『サ道―マンガで読むサウナ道―』(タナカカツキ/講談社)、『涙雨とセレナーデ』(河内遙/講談社)など。
Interview
bossのルーツはエンジン!?
――デザイナーは新上さんにとって幼い頃からの夢だったのでしょうか?
いや、実はそうでもないんですよ。僕の興味の目覚めは「技術」の授業ですね。
中学のときの技術の先生に影響を受け、車やバイクのエンジンに興味を持つようになったんですよね。
今でもその先生のことを鮮明に覚えているのですが、作業着を着て、常に何かを作っているような人でした。
その先生が、エンジンの構造とか、4ストローク、2ストローク、さらにはロータリーっていうものすごいエンジンがあるとか、
とにかく小難しいことを技術室でたくさん教えてくれるわけです。
技術室での時間は、もう大学に行っているようなものでした。
先生のその話の影響で工業高校に行きたくなり、横須賀工業高校に進学することに決めたんです。
――てっきり絵画の話や美術部の話になると思ったら工業の話からスタートするんですね!
工業高校では、毎日作業着を着て油まみれ泥まみれで作業していました。
「このエンジンはどうやって動いているんだ?」ってことを四六時中考えて図面に起こしたり、
車やエンジンの部品の断面図を描いたりするのはおもしろくてね。
――ちなみにそのときの将来の夢は?
自動車整備工でした。F1のチームに入ってF1メカニックみたいなこともやってみたかった。
エンジンを作ってみたい気持ちもありましたね。とにかく高校3年間はずっと車やエンジンのことばかり考えていました。
――一番の魅力はなんだったんでしょう?
部品の集まりを精密に組み上げると車になって走ったり、飛行機になって空を飛んだりというのを、
ものすごくおもしろく感じていたんですよね。
だからよく自転車などをばらして「どうやって成り立っているんだろう?」と部品をスケッチしていました。
――バラバラの素材を集めてひとつにする……
なんだかデザインとも通ずるような考え方ですね。その後はまさか自動車整備工に…?
いえいえ。工業高校はほとんどの人が就職するのですが、近くに大きな自動車工場があったこともあり、
同級生はどんどん就職先を決めていました。
高3の僕も「やっぱり車の整備かなあ」なんて思っていたのですが、
あるとき「あれ? なんか就職しないほうがいい気がする」と漠然と思ったんですよね。
――周りが就職を決めていく中、なぜ就職しないほうがいいと思ったのでしょう?
就職しちゃったらそこで終わりで、次の興味が出てこないような気がしたんですよね。
そうこうしているうちに、次第に“工業デザイン”という分野があることに気づきます。
今まではエンジンや機構のことばかり考えていたけど、工業デザインは車の形やエンジンの形をつかさどる分野。
いくら性能や技術がよくても形がかっこ悪かったら意味がないなということに気づき、「デザインってなんなんだ?」と。
――デザインとの出会いですね!
バイクで言えば、いつも技術屋とデザイン屋のせめぎあいがあって、かっこよくて性能のいいバイクが誕生するわけです。
今残っているバイクってみんなかっこいい形をしているのにも納得ですよね。
「デザインってすごいことだぞ…!」と思い、僕はデザインの道に進むことを決めました。
ところが、先生に「デザインのできる就職先はないんですか?」と聞いても、
通っていた高校にはそういった実績がないからわからない、と。
おまけに親も僕が進学すると思っていなかったものだから、もちろん進学資金の準備もないし、自分でなんとかするしかなかった。
バイトで貯めたお金だけでも行けるような安い学校はないかと探して見つけたのが、
桑沢デザイン研究所の2部(夜間)だったんです。ここならバイトしながらなんとか通えそうだなと。
――デザインの専門学校の受験となると、試験があるわけですよね?
それ専用の受験勉強もしなくてはいけないと思うのですが…。
おっしゃる通り、デッサンや平面構成の練習をして受験してくる人たちやアトリエ卒業の人たちが多いのに、
僕は一切そういう対策をやってなかったんですよね。
でも、エンジンや部品の絵だけは日常的にめちゃくちゃ描いていた。
エンジンを見ただけで中の構図がわかるくらいにはなっていたので、無事に受かったのはそのおかげかもしれません。
――いざ、デザインの専門学校へ! 学校生活はいかがでした?
1年目は結構真面目に通いました。でもだんだんお金がなくなり、バイトをしなくちゃまずい状況になってきて。
そのときは都内の額縁屋さんでバイトをしていました。画家の先生の家まで車で配達に行ったり、
展覧会に出す絵画のピックアップに行ったり、楽しかったですね。
それがだんだん面白くなっちゃって、学校にもだんだん行かなくなっちゃったんですよね。
――えっ、1年しか通っていないのに!?
ほぼ1年足らずで行かなくなっちゃいましたね。
たまに学校に行って仲のいい友達や先輩と話すくらいだったのですが、あるとき友達からバイトの面接に誘われたんです。
面白そうだから行ってみようと思ったそれが、代官山にあるブックデザインの有名な先生のいる事務所でした。
そこではじめて本のデザインというものに触れたんです。
ブックデザインとの出会い
――代官山のブックデザイン事務所で、本のデザインに初めて出会ったんですね。
はい。面接に行って、そこでバイトしてみたいと思い、先生に長い手紙を書きました。
19歳くらいのときだったかな。
「本のデザインがあると知って、すごく感動しました。僕は何もわかりませんけど、やってみたいです」って。
――そこまでして入りたかった理由は何だったのでしょうか?
桑沢デザイン研究所に入って、デザインにもたくさんの種類があると知りました。
僕は、工業デザインきっかけで入ったけれど、グラフィックデザインやファッションデザイン、もちろん絵画やブックデザインも。
いろんなデザインに触れてきた中で、ブックデザインの事務所で具体的にデザインに触れてみたいと思ったんです。
――熱い手紙の結果、採用されたのでしょうか?
どうせ受からないだろうなと思っていたら、なんと採用されたんですよ。
それで行ってみたら、デザインの学校や美大を卒業してきた先輩たちがたくさんいて、学校に行っていない僕を見て
「お前はなんなんだ?」と(笑)。
でも、「教えてください!」という姿勢を貫いていたら、ある怖い先輩のアシスタントにつくように言われたんです。
その先輩はその事務所で一番怖い人で、いまだにあの人以上に怖い人には出会ったことはないんですが(笑)。
最初は口も聞いてくれなかったし、ずっと付き人のようなことをしていました。
――そこからデザインの仕事はもらえたのでしょうか?
いえいえ、デザインなんて一切させてもらえなかったです。
それでもアシスタントみんなでやる仕事は楽しかったですけどね。
ほぼ泊まり込みで、先輩の手伝いや雑務のようなことをやっていました。
事務所がペントハウスみたいな場所で暗室も併設されていたので、そこで写真の現像をしたり、
帰れないからって交代で仮眠をとったり。
――青春っぽくていいですね。でも、デザインは相変わらずやらせてもらえないと…
そうなんです。しばらく経って、やっぱりデザインをやらせてもらえない状況に嫌気が差してきて…。
一方ブックデザインデザイン事務所のほうは、当時バブル景気だったこともあり、どんどん大きくなっていきました。
結局2年ほど在籍していたのですが、最終的に22歳くらいのときにもう辞めようと決め、一旦横須賀に帰ることにしたんです。
――せっかく本のデザインと出会ったのに、結局肝心のデザインはやらせてもらえなかったのですね。
それで、帰って就職しようと思い、そのときに始めたのが求人雑誌の広告デザインでした。
広告デザインをやってみたかった気持ちもありましたし、営業の方が売ってきた広告枠をすぐデザインして掲載する、
というスピーディな流れも面白かった。
景気もよかったから旅行や飲み会もたくさんあったし、「この仕事最高じゃないか!」と思っていました。
ところが、ある日突然代官山のブックデザイン事務所にいた例の怖い先輩から電話がかかってきたんです。
「代官山の事務所を辞めて新しい会社を作るから新上、お前も来い」と。

――えっ、あの怖い先輩からの電話ですか!
飛び上がりましたよ…。ただ、可愛がってもらっていたことには変わりないので、お誘いはありがたかったですけどね。
「僕もデザインやらせてもらえるんですか?」と聞いたら「もちろんだよ」と言うので、飛び込んでみることにしました。
それが池尻大橋にあったデザイン事務所です。
当初、建築雑誌のデザインをやることが決まっていたので、僕も手伝うようになりました。
ところが、怖い先輩の仕事を手伝ってみたら、難しすぎてさっぱりわからなかったんです。
なんじゃこりゃ?って思いましたね。
――建築雑誌のデザイン、なかなか難しいものだったのですね。
狭い部屋で机を2つ並べて、先輩の手元を見ているうちにこの人はとんでもない実力者だったんだということがだんだんわかってきて。
同時に「僕は何も勉強をしてこなかったんだ」ということも身にしみるように理解しました。
あのときは本当に自信がなくなりましたね。
こんな難しいこと僕にはできないと自信を失っていたときでした。
突然先輩に「俺、新婚旅行に行くから新上、お前が次の雑誌1号分をやれ」と言われたんです。
――それは突然すぎますね…
崖から突き落とされるほどの衝撃でした。
デザインのやり方もわからないのに、もうやるしかない。
見様見真似で作ったら印刷事故もばんばん起こるし、他のデザイナーの先輩にも助けてもらいながらなんとか1冊作りきったものの、
「もうこれは勉強しなくちゃダメだ」と心から思いました。もうあのときの雑誌は見たくないですね…(笑)。
そこから真面目に、先輩の仕事や先輩が学んだ代官山のブックデザイン事務所の先生のデザインについて勉強を始めました。
やっていくうちに、先輩が代官山の事務所の先生を尊敬していたこともわかってきたし、学ぶ上で、
そのデザインの宗派的なものを自分が引き継がなければならないこともわかってきたんです。
――デザインには宗派があったということですか?
当時のメジャーなデザインの在り方として、宗派を継承していくという流れが一般的でした。
先生たちが作ったデザインの宗派を僕らは突き詰めていけばいい、というのがスタンダードな形。
いわゆるアカデミックな世界で、例えば「あの先生はこういう書体を使っているからそれに従う」というように、
先生の型の写経しているみたいなイメージです。
宗派に沿ってやっていたら自分のデザインが縮んでしまう。
同時に、その宗派を引き継いでいくには、一生をかけてやらないとできないくらい大変だということもわかってきて。
自由にデザインができないことにだんだん腹が立ってきて、成人向け雑誌やクルマ雑誌のレイアウトのバイトをするようになったんです。
――それは先輩には内緒で?
もちろん内緒です。
成人向け雑誌は、写真さえちゃんと見せればタイトル周りなどを遊ばせてくれるような時代だったので、
のびのびとデザインができてうれしかったですね。
でも、結局本職の先輩の元での仕事は窮屈になってしまい、辞めることになりました。
僕は元々野良犬みたいなものだから、アカデミックな世界は窮屈に思えて仕方なかったんでしょうね。
もちろん、そういう世界は突き詰めるほど面白味があるんでしょうが、自由でいたい僕には合わず、
その世界から脱却したかったんです。
――先輩の会社を辞めたあとはフリーで活動されていたのですか?
そうですね。24歳くらいのときにフリーとなり、「新上ヒロシデザイン室」の屋号で雑誌を中心にお仕事を受けていました。
その時代は雑誌が1週間に1冊できるような時代で、たくさんの媒体をデザインさせていただいていましたね。
仕事をやればやるほど当然売上も上がってきます。
税金問題をどうしようかと悩んだとき、会社にしようと思って作ったのがナルティスです。
――ナルティスという名前にした理由を伺ってもいいですか?
“ナルシスト”の“ナル”を入れたかったというのと、最後に”ス”をつけたかったんです。
“ス(s)”をつけることで僕ひとりではなく、“デザイン集団”にしたいという想いもありました。
あとは、前の事務所でアカデミックなデザインに縛られていたのもあって、それは絶対にやるまいと思っていましたね。
僕を含めてひとりひとりのデザインができるような会社にしたかったんです。

本記事の【中編】では、ひとりのデザイナーとしての新上ヒロシさんについて深堀していきます。
お楽しみに!
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